ここまで読んでくれたなら
ここまで読んでくれたなら、
もう気づいている人も多いだろ。
この代替案の一番の強みは、
発電量でも、
効率でも、
技術の目新しさでもない。
場所を選ばない。
固定されない。
日本に住んでるなら、
わかるだろ?
常に身近な、
足元に存在している。
これに尽きる。
発電は、なぜ「場所」に縛られてきたのか
これまでの発電の話は、
どうしても
場所の話から逃げられなかった。
そりゃ、当然だ。
日当たりがいいかどうか
屋根が使えるかどうか
土地があるかどうか
騒音や景観は大丈夫か
こういう条件が、
必ずついて回る。
気づけば、
ハードルの高い参加資格の話になっていく。
悪気はない。
合理的でもある。
ただ、その時点で――
選択肢は一気に狭くなる。
本気で参加できるのは、
条件を満たした
ごく一部だけだ。
これじゃあ、
一億人総参加は無理だろ?
マイクロ水流は、その前提をひっくり返す
マイクロ水流は、
発電の前提を
こう書き換える。
水が流れる場所=発電所
これ一行で済む。
屋根があるかどうかも、
土地を持っているかどうかも、
関係ない。
日当たりも、
風向きも、
季節も、
ほとんど関係ない。
家の外に出た瞬間、強さが跳ね上がる
家庭だけで狭く考えると、
この発想は
少し地味に見える。
でもな。
家の外に目を向けた瞬間、
一気に景色が変わる。
コンビニ――
トイレ、あるだろ?
むしろ駆け込むぞ(笑)
商業施設――
立派な個室が並んでるじゃないか(笑)
公園――
なくてはならない存在だ。
駅、職場、工場、病院、宿泊施設……
もう、数え出したらキリがない。
人が集まる場所=水も使われる場所。
引きこもろうが、
外出しようが、
日本のどこかで、
今日も水は流れている。
そして、
こういう場所は圧倒的に数が多い。
「誰の発電所か」という問いが消える
ここが、
この代替案の
一番思想的にヤバいところだ。
普通の再エネは、
必ずこう聞かれる。
誰が設置したのか
誰が管理するのか
誰の持ち物なのか
でも、
マイクロ水流では――
この問い自体が薄れていく。
ここが、
本当にすごい。
使われている場所で、
勝手に回っている。
利用者も、
所有者も、
ほとんど意識しない。
発電の主体が「人」じゃなく「生活」になる
ここで、
発電の主体が入れ替わる。
人が頑張る
人が選ぶ
人が背負う
そういう構造じゃない。
生活そのものが、
淡々と発電している。
この差は、
10年、20年という
時間軸で見ると、
とてつもなく大きい。
場所を選ばない=責任が分散する
場所を選ばないということは、
責任も集中しにくい、ということだ。
壊れても、
生活は止まらない。
止まっても、
誰も困らない。
誰かが、
頭を下げる必要もない。
この軽さがあるから、
長く残る。
家庭限定じゃないから、社会に広がる
もしこれが、
「各家庭で頑張りましょう」
という話だったら、
ここまでの力はない。
でも、実際は違う。
家庭でも回る。
店でも回る。
公共施設でも回る。
職場でも回る。
どこでも回る。
だから、
社会全体に
薄く、広く、染み込んでいく。
一人ひとりの力は微々たるものだ。
ちょっとお腹に力を入れる程度だろ(笑)
でもな。
影響力は、国家規模だ。
10年という土俵で見たときの強さ
10年後、
誰かが、
こんなことを言っているかもしれない。
「そういえば、
トイレの裏で
何か回ってるな」
それでいい。
説明されなくても使われている。
意識されなくても残っている。
それが、
インフラになるということだ。