何気ない日常に潜む深淵 第1話 実録

第1話|初号機誕生

― ある初号機の記録 ―

人間という生き物は本当に不思議なものである。

何か大きな病気をしたわけでもない。

何か大きなものを失った訳でもない。

生命や財産に関わる事件のような話でもない。

些細なことだ。

誰にでもそんな気持ちは存在する。

事の始まりとしては、ある日を境に急に意識が変わる事がある。

今回の話も、そんな些細な決意を新たにした矢先の出来事だった。

きっかけは歯医者である。

コロナの影響で日夜マスクをしていた時期もあった。

人間というもの、見られていない箇所はケアをサボりがちである。

そんな中、歯のクリーニング、虫歯の治療を含め、奮起して本腰を入れないと、いつまでたっても繰り返してしまう。

そんな恐怖心もどこかにあったのかもしれない。

真面目に歯医者へ通い始めたのであった。

通院の日々。

ここしばらく通院が続いていた。

治療そのものは順調だった。

磨きのチェック。

歯周病ポケットのチェック。

磨き方の指導。

そして虫歯の治療。

だが、毎回通うたびに思うのである。

「ちゃんと手入れせんといかんな」

と。

ケアを疎かにした結果である。

自業自得だ。

過ぎ去った年月は帰ってこない。

ならば今後、この歯医者を起点として向かう人生の先で、過去の自分を誇れるように。

そんな決意が心のどこかにあった。

若い頃は。

それはまぁ勢いで何とかなった。

多少磨き残しがあろうが、夜更かししようが、そこまで深刻に考える事もなかった。

勢いとは時に、人を盲目にさせる魔物である。

しかし、年齢を重ねるにつれ、身体の各部は少しずつ現実を教えてくる。

歯も全くもって例外ではない。

今あるものは、失ってからでは戻らない。

失わない事が一番の理想ではある。

だが、衰えは誰にでもやってくる。

若い頃のようにはいかない。

だからといって諦める訳でもない。

少しでも長く付き合っていくために、今できる事をやる。

それだけの話である。

そんな当たり前の事実を、歯医者通いは静かに教えてくれる。

そこで私は決意した。

ちゃんと磨こう。

今からでも遅くない。

むしろ、ここで変わらなければ、今までの繰り返しの延長線から抜け出せない。

長い目で見た金銭的負担や、健康への不安が脳内をよぎる。

本気で磨こう。

歯磨き粉も見直そう。

歯ブラシも見直そう。

どうせ毎日使うものだ。

メーカーが本気を出すならば、一消費者として本気で迎えよう。

それが生産者に対する敬意である。

なんとなく選ぶのではなく、自分なりに納得できる一本を本気で探してみよう。

自分自身が心底納得するその瞬間が大切だ。

そうして休日、ドラッグストアへ向かった。

そこには実に様々な歯ブラシが所狭しと並んでいた。

世の中にこんなに多種多様な種類があったのかと、少し驚いたほどである。

機能性。

独自性。

多様性。

コストパフォーマンス。

やわらかめ。ふつう。かため。

極細毛。幅広ヘッド。コンパクトヘッド。

さらには毛先の材質。歯ぐきへのフィット感まで考慮されている。

実に奥が深い。

普段なら、ものの数秒で終わる買い物である。

だが、しかし。

決意を胸の奥に秘めたこの日は違った。

しばらく棚の前で悩み、比較し、吟味し、最終的に一本を選び抜いた。

価格は決して高級品ではない。

だが、その時の私にとっては違った。

これは単なる歯ブラシではない。

己の決意の象徴である。

健康改善、そして習慣改善。

その大計画の最初の一歩である。

そうして我が家へ配備された。

記念すべき本気の歯ブラシ。

「初号機」である。

運用開始。

すべてはここから始まった。