人間という生き物は本当に不思議なものである。
何か大きな病気をしたわけでもない。
何か大きなものを失った訳でもない。
生命や財産に関わる事件のような話でもない。
些細なことだ。
誰にでもそんな気持ちは存在する。
事の始まりとしては、ある日を境に急に意識が変わる事がある。
今回の話も、そんな些細な決意を新たにした矢先の出来事だった。
きっかけは歯医者である。
コロナの影響で日夜マスクをしていた時期もあった。
人間というもの、見られていない箇所はケアをサボりがちである。
そんな中、歯のクリーニング、虫歯の治療を含め、奮起して本腰を入れないと、いつまでたっても繰り返してしまう。
そんな恐怖心もどこかにあったのかもしれない。
真面目に歯医者へ通い始めたのであった。
通院の日々。
ここしばらく通院が続いていた。
治療そのものは順調だった。
磨きのチェック。
歯周病ポケットのチェック。
磨き方の指導。
そして虫歯の治療。
だが、毎回通うたびに思うのである。
「ちゃんと手入れせんといかんな」
と。
ケアを疎かにした結果である。
自業自得だ。
過ぎ去った年月は帰ってこない。
ならば今後、この歯医者を起点として向かう人生の先で、過去の自分を誇れるように。
そんな決意が心のどこかにあった。
若い頃は。
それはまぁ勢いで何とかなった。
多少磨き残しがあろうが、夜更かししようが、そこまで深刻に考える事もなかった。
勢いとは時に、人を盲目にさせる魔物である。
しかし、年齢を重ねるにつれ、身体の各部は少しずつ現実を教えてくる。
歯も全くもって例外ではない。
今あるものは、失ってからでは戻らない。
失わない事が一番の理想ではある。
だが、衰えは誰にでもやってくる。
若い頃のようにはいかない。
だからといって諦める訳でもない。
少しでも長く付き合っていくために、今できる事をやる。
それだけの話である。
そんな当たり前の事実を、歯医者通いは静かに教えてくれる。
そこで私は決意した。
ちゃんと磨こう。
今からでも遅くない。
むしろ、ここで変わらなければ、今までの繰り返しの延長線から抜け出せない。
長い目で見た金銭的負担や、健康への不安が脳内をよぎる。
本気で磨こう。
歯磨き粉も見直そう。
歯ブラシも見直そう。
どうせ毎日使うものだ。
メーカーが本気を出すならば、一消費者として本気で迎えよう。
それが生産者に対する敬意である。
なんとなく選ぶのではなく、自分なりに納得できる一本を本気で探してみよう。
自分自身が心底納得するその瞬間が大切だ。
そうして休日、ドラッグストアへ向かった。
そこには実に様々な歯ブラシが所狭しと並んでいた。
世の中にこんなに多種多様な種類があったのかと、少し驚いたほどである。
機能性。
独自性。
多様性。
コストパフォーマンス。
やわらかめ。ふつう。かため。
極細毛。幅広ヘッド。コンパクトヘッド。
さらには毛先の材質。歯ぐきへのフィット感まで考慮されている。
実に奥が深い。
普段なら、ものの数秒で終わる買い物である。
だが、しかし。
決意を胸の奥に秘めたこの日は違った。
しばらく棚の前で悩み、比較し、吟味し、最終的に一本を選び抜いた。
価格は決して高級品ではない。
だが、その時の私にとっては違った。
これは単なる歯ブラシではない。
己の決意の象徴である。
健康改善、そして習慣改善。
その大計画の最初の一歩である。
そうして我が家へ配備された。
記念すべき本気の歯ブラシ。
「初号機」である。
運用開始。
すべてはここから始まった。