その日の朝も、いつもと変わらぬ朝だった。
いつもの何気ないルーティーン。
ただ違うのは、あの初号機との出会いにより、口腔内が満たされる感覚であろう。
少なくとも、その運命の悪戯が細く微笑むその瞬間までは。
「初号機」の運用も順調。歯医者通いも継続中。毎日の歯磨きも少しずつ習慣として定着し始めていた。
特に不満もない。特に不安もない。平和そのものである。
日が増すたびに、少しずつ高揚を隠せない心境でもあった。
まるで新婚夫婦のごとく。
だからこそ。そんな時であるからこそ、人は油断する。
そして不慮の事故というものは、決まってそんな時に、何食わぬ顔で平然と待っているのである。
私はいつものように洗面所へ向かった。
いつもの流れである。
顔を洗う。
髭をそる。
歯を磨く。
そんな、いつもと変わらぬ日常。
何の変哲もない週末の朝である。
そして、眼鏡を外した。
洗面台の鏡の下には、コップや歯磨き粉を置く広めのちょい置きスペース。いつもの流れで、眼鏡もそこへ着地する。
その瞬間だった。
ほんのわずかであった。
本当にわずかな接触。
意図せぬ感触。
小指の先。
ちょうど第一関節の外側面のあたりだろうか。
何かに触れた感覚があった。
「あっ……」
ほんの一瞬。思わず発した、言葉にならない発声も虚しく、時はすでに遅かった。
初号機が。
決意を分かち合ったあの相棒が。
宙に浮いていた。
人間というものは不思議なもので、衝撃的な瞬間ほど時間がゆっくり流れる。
実際にはほんの一瞬だったのだろう。
だが私には、妙に長く感じられた。
走馬灯が走る。そんな感覚にも似た出来事だった。
初号機は、美しい放物線を描きながら、洗面所の上空へ飛び出した。
そして回る。
回る。
綺麗な弧を描きながら、さらに回る。
なぜ回る。
私にもわからない。
だが回っている。それだけは確かだった。
その瞬間だけ、重力という絶対的な支配から解放されたかのように。
偶然の小指接触というトリガー。それはまるで、踏切から放たれた高飛び込み競技の選手のようだった。
初号機は洗面所の上空へ解き放たれる。
空気を切り裂き、静かに回転しながら、美しい軌道を描いていく。
一回。
二回。
三回。
そして――
四回。
ほんの刹那。「相棒」の顔とも言うべき、ヘッドの毛先と目が合った気がした。
4回転半1捻りの奇跡。
その軌道は、明らかに私の望む方向ではない。
戻れ。
頼む。
そっちへ行くな。
そんな願いとは無関係に、「初号機」は己の信じた軌道を進み続ける。
重力は万物にとって平等である。
希望も願望も考慮しない。
ただ静かに。そして確実に。地上へ導くだけだ。
そして――
消えた。
・・・
・・・・・・
音がしない。
完全な無音であった。
何かにぶつかった音も。
跳ね返った音も。
着地した音も。
何も聞こえない。
静まり返ったこの静寂。ただそれだけだった。
私は数秒ほど、虚無の魔物に拘束されたかのように固まっていた。
いや、実際にはもっと短かったのかもしれない。
現実時間に換算すれば、数秒にも満たない刹那の出来事だった事は間違いない。
しかし体感時間はずっと長い。
視線だけが、初号機の消えた方向を追っていた。
( ゚д゚ )
金縛りにあったように体が動かない。
ただ、脳内だけが状況整理を試みる。
だが、結論は出ない。
ただ一つだけ確かな事があった。
何かとんでもなく良くない事が起きた。
その予感だけは、確実に存在していた。