しばらく固まっていた。
脳内でどれくらいの時間が経過していたのだろう。
だが、現実逃避だけでは深淵は闇に包まれたままだ。
動かなければ何も解決しない。
相棒との僅かな距離のすれ違いが生んだ大惨事である。
まずは気を取り直し、冷静に状況確認である。
「初号機」は確かに飛んだ。
元にあった場所からは姿を消している。
重力から解き放たれ、放物線の芸術の最中、目が合ったあの出来事は紛れもない事実だ。
あの瞬間だけが脳内に幾度も再生される。
事件の目撃者はただ一人。俺だけだ。
一瞬の意思疎通の後、そして消えた。
問題は、どこへ消えたのか。
そこにたどり着くことが、すなわち解明である。
私はゆっくりと洗面台の周辺を見回した。
敷地面積全体を換算すると畳二枚ほどの広さか。いや、もう少しゆとりのある空間だ。
床。まったく異常なし。
足元。何も落ちていない。
洗面台の周辺及び側面の床。ここも異常なし。
どこにも見当たらない。
おかしい。確かに飛んだ。見間違いではない。
ならばどこへ行った。
脳内で先ほどの軌道を再生する。
放物線。回転。消失方向。
何度か記憶をたどる。
そして、ある場所へ視線が止まった。
そこには、高さおおよそ120cm前後。幅約55〜60cm。奥行約56〜61cm。
どの家庭にも存在しうる「ある物体(家電)」が、その場に威風堂々と佇んでいた。
例えて言うならば、太古からこの地に根を張った古代遺跡のごとく。
まさか。
いや、そんなはずはない。
しかし理屈で考えると、最も可能性が高い場所でもある。
私はゆっくりと近づいた。
中央を覗き込む。
衣類は見当たらない。だとしたら内側の金属との接触音が響くはずだ。
見当たらない。見えない。
角度を変える。
見えない。
壁とその古代遺跡側面側との隙間は約3cm。排水ホースや電源コードも存在する。
ここであるとするならば、壁に当たるはずである。
バスケットボールにおいて、バックボードにボールを当ててからリングへ沈めるシュート。すなわちバンクショットなら成立する。
しかし――無音である。
踏切位置から距離と角度を計算しても、無音でのゴールは物理的に無理ゲーである。
さらに身をよじる。首や肩の角度を変えてみる。
だが、やはり見えない。無音の静寂。
あの時の状況が脳裏をよぎる。
ここまで見えないと、逆に違う場所なのではないかと思えてくる。
だが、どう考えても怪しい。
現場の構造。飛行方向。着地点。
脳裏に幾たびと再生される状況証拠。
どこかで脳内編集が入ったのか。そう疑いたくもなる。
だが、その状況証拠だけを着実に積み上げると、答えは一つしかない。
私は再び視線を向けた。
そして、ほんのわずかな違和感を見つけた。
隙間。暗闇の奥。壁際という死角。
照明の光が斜め上から一部分しか届かない。
中央には太いホースと、プラスチックの留め具。
俺自身の背中にも、何かが走るのを感じた瞬間だった。
まさか……。
身を乗り出す。側面とは違い、高さを加味した不自然な姿勢になる。
スマホのライトが照らす先。わずかに何か色が見える。
下界の世界とは違和感を感じる配色だ。
気のせいかと思った。いや……。
もう一度確認する。やはり見える。
ほんの少しだけではあるが、明らかな配色の違和感。
柄の先端と思われる紫色。
これは間違いない。「初号機」だった。
生存確認。
思わず安堵する。硬直した体に、一斉に血液が流れ出すあの感覚。
居た。確かに居た。間違いない。相棒だ。「初号機」だ。
だが――そこから先の現実は、あまりにも残酷だった。
距離にして僅か。高さにして一メートルちょっと。人間の身長にも満たない距離。
手を伸ばせば届きそうにも見える。
しかし届かない。
角度が悪い。障害物もある。指先が届かない。
何度試しても届かない。
見えている。確かに見えている。
だが回収できない。
その事実と、もどかしさと、残酷な現実だけが、静かに突きつけられる。
私はしばらくその紫色を見つめていた。
数分前まで、毎日手にしていた相棒。
今は目の前に居るのに届かない。
その距離は、視覚にとらえることのできる数十センチ。
だが、あまりにも遠かった。
そして果てしなく遠かった。
そして私は、ようやく現実を受け入れ始める。
取れんやん……