シンギュラリティ方程式の解 第5頁 2026‑02‑11 定義編③

定義③

―― 「到達」を判断するのは誰なのか

— 野須寅 堕無洲(のすとら・だむす)|認識と宣言を含んだ概念

ここまでで

ここまでで、
「シンギュラリティ」という言葉が、

・技術的にはどう定義されてきたか

・社会の中でどう語られてきたか

その二つを、順を追って確認してきた。

もう一段視点をずらす

ここで、
もう一段だけ視点をずらしてみよう。

少しだけ、
エンジンの回転数を上げていく。

実にシンプルな問い

問いは、実にシンプルだ。

「シンギュラリティに到達した」と、
それを判断するのは一体誰なのか。

技術的には現象のはず

前の項を振り返ればわかるように、
技術的な話として考えれば、
シンギュラリティは本来、
AIの性能や進化に関する
現象のはずだ。

処理能力、学習速度、
自己改善の度合い。
そういった指標が
積み重なった先にあるものとして
語られてきた。

実際、
過去を遡ってみれば、
進化してきた部分があることは
肌感覚としても理解できる。

ひとつ押さえておきたい点

だが、
ここでひとつ押さえておきたい点がある。

現象であるならば、
本来それは
自然に「起きる」ものであって、
誰かが宣言するものではない。

現実の言説の中では

にもかかわらず、
現実の言説の中では、
こんな言い回しが現れる。

「到達した」

「ついに来た」

「もう後戻りできない」

ここで、
ひとつの違和感が生まれる。

どの視点から見た到達なのか

その「到達」は、
どの視点から見た到達なのか。

AI自身が
「到達した」と言うわけではない。

システムが
何かの合図を出すわけでもない。

それを
到達と呼び、
到達だと認識し、
到達だと宣言しているのは、
常に外側にいる存在だ。

認識の要素が含まれている

つまり、
ここで扱われている「到達」には、
客観的な現象だけでなく、
それをどう認識したか
という要素が含まれている。

もう少し噛み砕こう

もう少し噛み砕こう。

ある変化が起きたとき、
それを
「まだ途中」と見るか、
「もう越えた」と見るかは、
見る側の基準に依存する

同じ状態を見ても、
ある人は
「まだだ」と言い、
別の人は
「もう十分だ」と言う。

ここに、
絶対的な線は引けない。

似た構図

コップの中に
半分の水が入っている、
あの話と似た構図だ。

認識の区切りとして機能

それでも、
「到達した」という言葉が
使われた瞬間、
それは
客観的な変化というより、
認識の区切りとして
機能し始める。

正誤の話ではない

ここで言いたいのは、
それが正しいとか、
間違っているとか、
そういう次元の話ではない。

三つが含まれている

ただ、
「シンギュラリティに到達した」
という表現の中には、

・何かが起きた

・それをどう見るかが定まった

・そして、それが言葉として置かれた

この三つが
一つのまとまりとして
含まれている、
という点だ。

認識と宣言を含んだ概念

つまり、
シンギュラリティという言葉は、
単なる技術現象のラベルではなく、
認識と宣言を含んだ概念として
使われ始めている。

あくまで定義上の整理

ここまでは、
あくまで定義上の整理に過ぎない。

ここでは、
人間がどうすべきかも語らない。
判断の是非も持ち出さない。

ひとつだけ静かに整理

ただ、
ひとつだけ
静かに整理しておこう。

シンギュラリティとは、
「何かが起きた」という話と、
「それを到達と認識した」という話が
重なったところで使われる言葉だ。

それだけのことだ。

次のページからは

次のページからは、
別の側面にも目を向ける。

この「認識」や「宣言」が、
なぜ自然に生まれてしまうのか。

その背景を、
順を追って確認していくことになる。